中国では民主化がおこなわれイスラム圏では世俗化がおこなわれていますが、私たちはこれらの過程にとっては部外者ですね。だからこれらの結果が悪いようにでないようにしてもらいたいと専門家に任せるしかありません。しかし現代社会ではもう一つの現象が起こっています。そしてそれは我々のいる民主社会で起こっているのです。それがここですね。

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つまり私たちは最初にみた古代アテネの衆愚政治の過程に差し掛かっているわけです。それでは我々もアテネと同じ道をたどって崩壊してしまうのでしょうか?

(1)現代民主国家と古代アテネの民主制度の違い

ちょっと見ると古代アテネと現代民主主義は全然違うように見えます。例えば古代ギリシャは直接民主制ですが、我々は複雑な間接民主制ですよね。だから古代ギリシャの教訓はまったく関係ない、我々の民主主義は永遠に続くといえるでしょうか?そう結論付けてしまう前に、ちょっと考えて見ましょう。

まず、ずっと規模の大きい我々の民主社会では、古代アテネとちがって、ずっと制度が組織化しています。まず三権分立が確立され、政府は立法、行政と司法の3つの組織に分かれ、お互いが監視しあうことによって、不正行為を無くすような制度ができています。それではこれで、古代アテネのたどった道を完全に避けることは充分でしょうか?ちょっと考えてみると、お互いが監視しあうということは、つまり、いかに他の人がその人のやるべきことをやっていないかを指摘しあうというシステムではないでしょうか?ということは見つからなければ何をやってもいいということになってしまわないでしょうか?例えば、今日本で、政治家の不正がよく取りざたされていますが、これは見つからなければ良いと思っている政治家が多くいるということで、それをスキャンダル雑誌が書き上げ、それを反対政党が大げさに追求し、政治が麻痺してしまい、政治不信が広まる。それではスキャンダル雑誌の無秩序な暴露を慎むべきではないかとなりますが、彼らは売れるから書くのであって、スキャンダルを面白がる読者がいるから悪いとなります。読者はもちろんこのような行動を取る政治家が悪いからだと言うでしょう。この三者が責め合っている間、自分は政治家でも記者でもないし、そんな雑誌も読まないから責任はないといっているような人が、足元を見ると、学校長で、自分の学校で起こっているいじめにまったく目をつぶっていたりする。そしてメディアが書き立てる。こうやってお互いが責め合っている間、見つからない人たちは淡々と非倫理的行為を続けていく。そのような制度で、社会はうまく運営できるでしょうか?もっと責任感のある、自分は人に見つかろうが見つかるまいが、自分のやるべきことをやるのだという基盤に基づいた制度が長く安定した社会制度には必要なのではないでしょうか?そのような社会にするために制度内で改革できることはあるのでしょうか?

制度上の改革で古代アテネの欠点を克服し長く安定した民主社会ができればよいのですが、それが難しいとなると、もしかしたら、民主主義の原則そのものに欠陥があることも考えられます。そうだとすると、いくら制度上の改革をしても衆愚政治化は避けられないことになってしまいます。そこで民主主義の根本原理について考えて見ましょう。

(2)民主主義の根本原理の問題点

ヴィーコの周期では民主主義は専制政治の反動として生まれ、その欠点を克服することによって安定した平和な社会を築こうとします。まず、専制政治下では人権が著しく侵害されました。日本でも軍部が国民とは関係のない戦争に引きずり込んで、お国のために死ねとか言われて、いやだと言ったら投獄されたりした時代でした。その反省に立って、まず民主主義では主権は国民にあります。またお国のためなどと悪用された義務の概念は極力軽視され、権利の概念が強調されます。支配者に対して少しでも批判的な事を言うと厳しく罰せられた社会の反動として自由の概念が重視されます。そして特権階級の支配する階級社会への反動として平等の精神が重視されます。これらはすぐ前の歴史的時点の弊害にだけ反応しているのですが、これらの解決法をより長い歴史的観点から見たとき正しい解決法だったといえるでしょうか? この点をもう少し詳しく見てみましょう。

国民主権の原則とその問題点

まず、民主主義の根本基盤である主権を国民が持つという原則ですが、はたしてこれは現実的に機能することが可能な原則なのでしょうか?主権を持っている者は社会の最高責任者です。社会で起こる全てのことに最終責任があります。ここで会社を例にとって考えてみましょう。会社では何か問題があると、社長が引責辞任などをしますが、もし社員全員が社長の会社があったら、何か問題が起こったとき、社員全員が責任を平等に分け合うことになります。ということは社員全員が引責辞任するということでしょうか?あるいは責任を全員で割ったとき、一人当たりの責任はとても小さくなって、結局誰も責任を取らないのと同じになってしまわないでしょうか?そのような会社に責任感をもった経営陣が育つでしょうか?そのような会社がうまく運営されていけるでしょうか?ここで、国は一企業よりもずっと規模が大きくなります。つまり日本では問題があると私たち一億人全員が責任を分担することになるのです。ここでよく政治家が悪いという批判を耳にしますが、これは会社の場合、社長が部下が悪いから利益が上がらないと部下を責めているのと同じことではないでしょうか?部下が悪ければ、社長は良い人材を採用し、社員を育成し利益を上げるようにする責任があります。これを一億人が平等に責任を持って行っていくことができるでしょうか?国民全員が主権を持っている民主社会では、このような問題はどう解決することができるのでしょう?

権利の強調とその問題点

次に民主主義下では国民の人権擁護の観点から権利の概念が極度に強調され、義務の概念が軽視される社会となりました。ここで、権利というのは平たく言うと、自分個人の利益を守る行動を取ることを優先することで、義務というのは社会全体の利益を守る行動を取ること優先することだとしましょう。この二つは必ずしもお互い矛盾するものではなく、理想の社会では、国民の一人一人が与えられた義務を果たすことによって、社会全体が安全で安定したものになり、それによって国民が安心して生活できる環境が整い、最後には一人一人が恩恵を受けるという好循環を生み出すので、義務というのは最終的には自分を助けることになるはずなのですが、専制政治下では自分の利益しか追求しない支配者が、全体のためだとうそをついたり、脅したりして国民を私的目的の達成の道具として使うこととなってしまったので、民主政治ではこの悪用された義務という概念を取り除いてしまいました。ということは権利意識ばかり持って義務意識の無い国民が主権者として君臨しているのが民主社会ということになってしまいます。そうなると、ここで悪循環が起こってきませんか?自分の利益ばかり追い求める人たちで占められた社会では競争が激しくなり、そうなると、自分のみを守るためには他人を傷つけても仕方ないとなり、競争がさらに激しくなり、これが繰り返されて遂には周りはすべて敵となり、中世の哲学者トーマス・ホッブスの言うところの「万人の万人に対する闘争」状態が生じ、真にこれはヴィーコの言う野蛮時代となるのではないでしょうか?

自由の原則とその問題点

次に自由について考えて見ましょう。専制政治下では、支配者を批判することなどは一切許されませんでした。また支配者の信じる宗教、学問以外のものを追求することも許されませんでした。すなわち支配者の意思が人民の意思でなければなりませんでした。この反省から民主制度は自由の原則を重んじます。それでは自由とはいったい何なのでしょうか?当初は自分の信じる神を信じる権利であり、政府の悪いところは悪いと言える権利でしたが、それは国民一人一人がそれがどのような結果に終わろうと何でもやりたいことをやりたいようにすればよいということではないはずです。自由をこのように理解してしまった場合、国は無秩序な社会となってしまうでしょう。ですから、民主国家では国民が自由という意味を真に理解しておくことが必要です。自由とは実は自己規制の権利であると言えるでしょう。言い換えれば、誰か他の人間に統制されるのではなく、自分自身で自己を統制することが許されるということです。自由社会でも、やっていいことと悪いことがあります。自由の問題は実はこれを誰が決めるかということで、これを自分で決めることが許されているのが民主制で、これを支配者が決めるのが君主制なのです。理想社会では、どちらの制度をとっても結果はほとんど同じになることでしょう。というのも、君主も国民もまず社会全体の利益を考えて、その枠内でどういうことが許されて、どういうことが許されないのかを決めていくことになるからです。しかし、義務に対して権利が極端に強調されている社会で、この決定を個々人に委ねてしまうとどうなるでしょう?自由の概念に権利意識が伴うと、ルールなしの競争社会になってしまいませんか?何の規制も無い完全な自由社会では、皆が自分の権利を推し進め、そこで人々の利害が衝突し、強者は勝って弱者は負けることになります。現代民主社会は資本主義と共に存在していますが、その社会では今中間層が狭まり、富裕階級と貧困階級への二極化の傾向が見られています。つまり自由競争の中で強者はより強く、弱者はより弱くなって来ているということでしょう。ここでも行き着く先は弱肉強食の競争社会、すなわちヴィーコの野蛮時代ということになってしまいます。

平等の原則とその問題点

最後に民主主義の基本原則である平等の概念も見てみましょう。これは民主主義だけに特有の概念です。ヴィーコの神の時代でも英雄の時代でも、治める者と治められる者という2つの階級が必ず存在します。理想社会では治める者は社会全体、人民全体の利益に基づいて全体にとって最も利益となる政治を行い、安全で豊かな社会を築き、その維持のために人民に適切な義務を割り当てることによって、上に述べたように人民が義務を果たすことにより安心して暮らせる社会ができるという好循環を作り出します。その目的を達成するためには治める者は最も大きな犠牲を払う用意がなければなりません。ですから治める者は生まれた時からその役職を果たすことのできる知的・精神的訓練を受けなければなりません。古代ギリシャの哲学者プラトンはこの治める者としての資質を見抜き、彼らを哲学王として教育する制度を提案しています。その中でプラトンが最も強調しているのは権限を与えられても、それを私的目的で使用するという誘惑にまけない強い義務感をもった人格の形成です。しかし専制政治下では、また私利私欲を追求する支配者が、身分を固定化することによって自分の安泰を計るために悪用されてしまいました。その反動として、民主制度は治める者という階級を取り去ってしまったのです。そこで残された治める者としての能力の無い素人が指導者の役目を負わされることになったのが民主制度です。このような社会では指導者層は長期的視点に立って社会全体を安定させるような知的能力を欠いているため、社会が混乱し、それに対して何の解決法も呈示できず、さらに社会が混乱してしまうという悪循環が生まれてしまうのではないでしょうか?

ここで上で述べた権利の強調された自由社会というのがまた問題になって来ます。この社会では、政治家も、社会や国民に対する義務感よりは自分の権利意識のほうが強いので、自分が当選することを社会の安定より優先させることになってしまい、その結果政治が乱れ、社会がますます混乱していくという悪循環をさらに悪化させるような状態になってしまいます。このような悪循環は最後には無政府状態を作り出し、ヴィーコの野蛮時代へ向かわせているようにも見えます。また強い権利意識は一般国民にもあるため、平等社会には国を破産させてしまう危険も伴います。平等意識が極端に高まると、社会で一人でも持てるものがあれば全員持つ権利があるという主張が生まれ、例えば、お金持ちだけが受けられる高い治療でも、国が負担して誰でもが受けられるようにしなければ平等ではないということになり、最後は国家予算は破綻してしまうことにもなりかねません。

ここで問題を整理してみましょう。

(3)民主主義の抱える課題

このように、専制政治の反省に基づいて、主権を国民に与え、義務より権利を強調し、自由・平等を基本原則として誕生した民主制度は、人々が自由で安心して暮らせる理想の社会を築こうとしましたが、余りに直前の欠点に焦点を当てすぎたため、振り子を正反対の極に振ってしまったようで、ヴィーコの歴史の周期全般から見ると、バランスを欠いているように見えます。それ故、反対の方向に振り切れてしまった振り子は、反動で野蛮時代に振り戻されるのでしょう。

民主国家の衆愚政治化は国内だけの問題ではありません。国際社会に目を向けてみると、民主国家の新たな課題が見えてきます。民主国家は指導者は国内の選挙民によって数年毎に選ばれるので、国際社会では自己中心的に、また長期的視野を持たず短絡的に行動することがあります。例えば、19世紀には英国が自国の市場を開放し、景気変動抑制的な融資をすることによって、世界恐慌を抑えたという例がありますが、民主国家では自国の国民が自分たちの目前の福祉を犠牲にして国際社会を守ろうとするとは考えにくいですね。これが国際社会を混乱させ、結果として自国も被害を被るというような悪循環を作り出すこともありえるのです。そして、民主国家が混乱して余裕がなくなってくると、この自己中心的な行動はさらに加速されることにもなるでしょう。このような状況下で、国際社会は前講でふれたイスラム国家の世俗化の問題と、中国の民主化の問題に対処しなければならないという三重苦の状態にあるのです。

このように、民主国家の衆愚政治化問題は国にとっても世界にとっても解決が迫られる問題です。そして主権を持つ私たちは責任をもって対応する義務があります。人民の時代は野蛮時代へ移行するしかないのでしょうか?ヴィーコの歴史の周期を見ると歴史上文明はこの過程を経て終わると定められているようにも見えますが、その反面、人類はまだ適切なバランスを見つけていないだけで振り子が両極端を行き来しているだけだと考えると、正しいバランスを見つければこの周期は回避できるようにも思えます。

民主主義の欠点は、まず、主権をあまりに分散しすぎたこと、そして権利・自由・平等の概念を過度に強調しすぎていることにあるようです。これは正反対の時代の反動ですが、この結果衆愚政治が進めば、今度はまたこの時代の反動として、正反対の解決法が取られることにもなりかねません。すなわち、主権を集中させ、一人の賢人に全権を与え、治める者として君臨してもらい、我々は与えられた義務を言われたままに果す。その為には自由は妨げとなるので放棄する、というものです。そうすればまた新しいヴィーコの周期が始まってしまいます。 ですから問題解決の為にはまず第一に個々の歴史の時点が直前の時代だけを見て問題を解決しようとせず、歴史全体の周期を見ることが第一でしょう。

この観点から今の民主主義について見てみるとどうなるでしょう? 西欧諸国においては移民反対の右翼の台頭や、イギリスのEU離脱などの問題が起こっていますが、これは現体制で弱者となった人たちが、移民たちは社会の底辺の人たちの職を奪うなどしてその生存を脅かすとして、必死に自分たちをまもろうとしている現れと見ていいのではないでしょうか?イギリスは自国民を守るためにEU離脱を決意しましたが、国際経済を不安に落としいれ、多国籍企業が流出し、結局自国民が被害を被るという悪循環が既に見え始めています。アメリカでも衆愚政治家が選ばれたりするようになってきていますが、これも弱者が現体制に不満を募らせ、権力の座に就きたい政治家が自分は体制を変えると宣伝し、現体制への不信任票を集めているといっていいのではないでしょうか?しかし、その座に就いてもこういう人たちは何の解決法もなく、状況はますます悪化することになり、その体制に挑戦する政治家がますます過激な政策を宣伝するようになり、衆愚政治化は悪循環を繰り返して進んでいくのでしょう。これに歯止めをかけることはできるのでしょうか?

日本はどうだと思いますか? 私たちはこれらの反省点に立って、主権者として問題解決に取り組まなければなりません。そのためまず第一にしなければならないことは、我々一人一人が「主権を持つとはどういうことなのか」、「権利と義務とはなにか」「自由とは何か」という問題としっかり向き合うことでしょう。次に、社長が会社のために有能な人材を発掘し育成していくように、我々も社会のために有能な人材を発掘して育成してかなければなりません。人の命を扱う医者が何年もかけて資格を取らなければいけないように、何千・何億という命に関わる政治家もしっかり訓練をうけて資格を取るべきです。歌手やスポーツ選手に手術が任せられないのと同様に、彼らに政治をまかせるのは主権者として無責任です。それではどのような教育制度が必要なのでしょうか?それも我々一人一人がしっかり考えていかなければならないことでしょう。