西洋史に見られるヴィーコの周期はイスラム圏でも見られます。イスラムは今神の時代から英雄の時代への変遷期にあるといえるでしょう。つまり下図のオレンジの部分ですね。

ただその過程は先に周期を進んでいた西洋によって、ゆがめられることとなりました。
イスラムは主要文明としてキリスト教に約600年遅れてその周期を開始し、モハメッド・イブン・アブデュラによって610年に創設されました。モハメッドは神の天啓を受け、それをコーランにまとめ、メッカで宗教を広めましたが、敵意を持って迎えられ、622年にはメジナに逃亡します。キリスト教と異なり、モハメッドは預言者としての役割と宗教の護衛としての両方の役割を果たすことができたので、国王による護衛を必要としませんでした。死去する前にモハメッドはアラビア半島の大部分の部族を統合しました。その死後、モハメッドの宗教的政治的権威はカリフ制の形を取り、継承者はカリフと呼ばれました。初代のカリフはアブ・バクル、オマール、オスマンとアリで、四人はラシダン・カリフと呼ばれ、後のイスラム社会で懐かしく思い起こされることになります。656年にオスマンが暗殺されたとき、継承紛争が起こります。アリはモハメッドの従兄弟でしたが、次期カリフに選ばれます。しかしシリアの総督であったムアーウィヤその他が抗議し、内乱が起こります。アリの死後、ムアーウィヤはカリフとなり750年まで続いたウマイヤ朝を設立しました。この論争は最終的にはスンナ派とシーア派の分離へと発展します。750年に内部の混乱によって王朝が崩壊すると、アッバース王朝が継承し、1258年まで続き、750年から945年までの時代がアッバース朝によるカリフ制の繁栄時代となりました。アッバース王はイスラム社会ウマの世俗的国王と宗教的指導者としての権力を行使する絶対君主となり、帝国は繁栄しましたが、945年にアッバース朝はイランの軍事王朝に征服され、カリフ制はかなりの権力を失い、単なる名目上の長に過ぎなくなりました。その分裂は1258年の崩壊まで続きますが、この時期シャリアと呼ばれるイスラム法が編纂されました。
アッバース朝崩壊のあと、オスマン=トルコ帝国、サファヴィー朝、ムガール帝国の3つの地域的帝国が成立します。オスマン=トルコ帝国は絶対君主制で、スルタン-カリフによって支配され、軍人、文官とウラマ、カディス、シャイク・アル・イスラムなどの聖職者という3つの支配階級からなり、スンナ派でした。しかしこの時点では宗教的影響力であるカリフは世俗の権限であるスルタンの下に置かれることになります。16世紀と17世紀において、オスマン=トルコ帝国はその支配的立場を失いましたが、帝国自体は第一次世界大戦の終わりまで存続します。サファヴィー朝は現在のイランに位置し、1501年から1722年まで続きました。帝国の創設者であるイスマイル王はシーア派を採択し強力な宗教的影響力を確立します。当初は部族的軍事政権でしたが、16世紀には絶対主義官僚制帝国に変身し、政府の中央政権化はアッバス一世(1527~1629年)の支配下で完成しました。スンナ派のオスマン=トルコとシーア派のサファヴィー朝はイラクをめぐって対立します。1508年イスマイル王はバグダッドを占領し、サファヴィー帝国はシーア派を人民に強制します。オスマン=トルコ帝国はスンナ派イスラムの守護者としてこれを許すわけにはいかず、1534年、オスマン=トルコはイラクをオスマン支配下に回復し、イスラム社会の覇者であると宣告します。アッバス王は1624年にイラクを奪回しましたが、1638年にはまたオスマン=トルコのムラット4世によって奪回されました。
インドは7世紀にイスラムの影響を受け始めます。イスラム教の波及は神秘主義のスフィズムによって助けられました。というのはスフィズムはヒンズー教に似ていたので、ヒンズー教徒によって受け入れやすかったからです。イスラム教国はウマイヤ朝のもとでインド侵攻を試みました。12世紀の終わりにはデリー・スルタン朝が設立します。デリー・スルタン朝は1526年にムガール帝国が設立した際吸収されました。ムガール帝国は18世紀に最盛期を向かえ、そこから徐々に凋落し1862年に崩壊することになります。
17世紀にインドのイスラム社会で改革運動が起こり、18世紀にはアラビア半島中心部でワッハービズムと呼ばれる清教徒的改革が始まります。それからさらに改革運動が続きました。これらの運動の指導者はしばしば古典的イスラムの伝統で教育を受け、頽廃的な世俗の慣習の浸透によってイスラム社会が預言者の伝統から逸れてしまったと信じるようになった人たちでした。彼らはイスラム教の原点に戻ることを強調しました。
19世紀には、イスラムの近代主義者が改革運動に乗り出しますが、宗教改革と反宗教改革を自然に経験し、その後啓蒙主義を通って現代化を遂げた西洋文明と異なり、イスラム文明はこの過程を西洋の帝国主義下でたどることになります。まずイスラム近代主義者は西洋の政治制度を導入し近代化を行うことによって西洋の支配から脱しようと試みます。しかし彼らの文明と宗教的基盤とかけ離れた制度を導入することは不可能でした。この問題への反動として、イスラム社会ではイスラムの伝統を強調する原理主義が再度台頭してくることになります。
20世紀に入って、オスマン=トルコ帝国が崩壊しイスラム文明はより深く西洋の国際政治体制に組み込まれていきます。オスマン=トルコの領土は分断され最終的に主権国家によって占められることとなりました。世俗化が自己のペースで達成される前に国民国家が強要されたという事実が、原理主義の種を植え付けます。さらに、西洋では産業化が資本家と労働者階級を創出する頃には宗教的影響力は政治的影響力を失っていて、民主化は、国王、貴族、資本家と労働者という最大4つの社会層が存在する中で行なわましたが、イスラム社会はいま、この4つに加えて宗教的社会層も関わることになり、最低でも合計5つ、宗教的社会層が分断すればそれ以上の社会集団が存在することになり、これが民主過程を西洋より複雑なものとしています。
イスラム社会へのこの影響は同一ではありませんでした。トルコは即座に世俗化に成功し、西洋諸国に似た形で民主制への移行を行ないます。その反対の極では、王国となったサウジアラビアがあります。その支配王朝は地域に深く根付いており、支配の正統性をイスラムと君主制の基盤から得ています。産業化と民主化を強い宗教の影響下で行なった国家もあります。例えば、イランではモサデクのシャーに対抗する国民戦線は、宗教的社会集団であるウラマの支持者から西洋で教育を受けた世俗の職業家にまたがる連合でしたが、これがモサデクが戦線を維持するのを大変困難なものとしました。その結果アメリカの介入もあり、イラン革命は失敗に終わります。そしてシャーによる専制制度は続きましたが、最終的には崩壊しアヤトラ・ホメイニがイスラム原理主義体制を導入します。エジプトでは1950年代に青年将校がクーデターを起こし王政を廃止します。そしてナセルが国家指導者として浮上しその正当性を高め、安定した基盤を基に宗教的指導者を軍部の配下で支配確保の道具として使用しました。シリアとイラクでは、旧支配層は地方出身の将校によるクーデターにより敗退し、最終的にはシリアではアル・アサド、イラクではサダム・フセインが権力を掌握し、独裁者となります。その際、彼らはバース党の思想に依存します。これは復興と言う意味で、国家主義的また改革主義的傾向があり、イスラム教の教義も組み込んでいますが、基本的には世俗的なものでした。 伝統的な宗教的社会集団は排除されましたが、世俗のバース思想は宗教が及ぼすことのできる広い影響力を養うことができなかったので、アル・アサドとフセインはしだいに抑圧政策を強めなければならなり、最終的には残虐な独裁体制となります。このような違いがどこから来るのでしょうか?それは、各国の地政的条件、石油の有無、スンナ派とシーア派の違い、産業化のレベル、代替思想の有無、そして国際環境など様々な要因が関係していると思われますが、詳しい研究の必要があるでしょう。
このようにイスラム圏はヴィーコの周期の途中で、西洋の帝国主義下にはいることによりその過程がゆがめられ、宗教指導者と世俗指導者の権力闘争の決着が付かないまま民主化の過程を始めることになってしまいました。さらに1980~90年代になると、現代化に成功した国々が出てきた結果、社会的経済的実情が政治の旧体制とかみ合わなくなってきました。さらに、冷戦の終わりが、その環境を大きく変え、世俗化過程は大きな影響を受け、21世紀にはイスラム圏は不確実の時代に入りました。このような現状は21世紀の国際社会にどのような課題を与えるのでしょうか?
まず第一に、イスラム圏にはまだ宗教的影響力が強く残っていますが、その反面世俗的利害に基づいて武力による支配を試みる指導者もいます。宗教的支配は中東ではアラブ主義に拡大される可能性があります。これは地域を統合する可能性がありますが、武力による支配は地域を分断する傾向があります。1979年のイラン革命の後、アヤトラ・ホメイニの指導の下イランはイスラム制度の再興を呼びかけましたが、このときにはイスラム諸国は呼応しませんでした。専門家によると、この理由は、イラン革命が成功したのは、革命の成功は西洋型の発展モデルに失望し、繁栄と希望のある将来を築くことのできるようなイスラム体制の復興を望んでいた一般のイスラム教徒には歓迎されましたが、宗教的指導者のライバルであった軍事力を基盤とする指導者にとっては、自分の主導権をとられる脅威に感じられ、歓迎されなかったとのことで、イランは孤立してしまったとのでした。このように、宗教的指導者と軍事的指導者が統一の目的を達するのは簡単なことではありません。例えば、中東は産油国と非産油国の間に分断があります。シリアとイラクも地域支配をめぐって対立しています。でももしイスラム国家が共通の敵戦略を内部統一のために採用することに成功し、武力闘争を打倒西洋社会などと外部に向けることができたなら、彼らはイスラム圏内での破壊的戦争を避けることはできるかもしれませんが、武力闘争が世界的に波及する恐れが出てきます。世界は極端に不安定となってしまうでしょう。状況によっては、民主化過程で膨張国家的傾向を持つようになった中国と同盟を結ぶことになるかもしれないし、または聖戦の名の下に無差別に圏外に攻撃を仕掛けてくるかもしれません。イスラムの過激派は現在そのメッセージをインターネットで広めて、ある程度の成功を収めています。現体制に不満を持つ青年層がこれに呼応して既存体制をあちこちで散発的に攻撃しているのです。これが将来どれのどの脅威となるかはまだ分かっていませんが、一歩間違えば、国際社会にとって大きな脅威となることもあるでしょう。
次に考えるべき点は、西洋諸国が基盤の整っていない地域に民主主義を強要することの是非についてでしょう。第2講で見たように、現代社会における民主化というのは産業化が充分進んで資本家と労働者階級が確立し、軍事力を基盤とした旧体制の指導者から政治権力を奪取できる状態になって初めて可能になるものとなっています。そのような基盤の整っていない社会は、いくら形だけ押し付けても前に後々進国であった中国とロシアが民主化に失敗して別の形の独裁制となったように、民主化を達成するのは難しいと思われます。
例えばシリアでは2010年代に専制君主のアル・アサドに対する反乱がありましたが、これが内乱に発展しています。20世紀の著名な外交家であったヘンリー・キッシンジャーの観察によると、主要なシリア人と地域での戦略家はこの戦争を民主化のためとしたのではなく、権力闘争での勝ち残りと見ていて、彼らは民主主義が自分の派閥が支配権を握れる場合に限ってしか興味を示しませんでした。政治体制において自己の政党が支配権を握ることが保証されていない体制を支持する者は無く、闘争は、彼らの見るところによると、専制君主と民主派の間で起こっていたのではなく、シリアの競合する派閥間とその地域での支持者の間のものであったとのことです。そして闘争が膠着状態に陥ると、徐々に過激派や過激戦術に頼るようになり、その残略さがまし、人権に留意する者はいなくなったとのことでした。(Henry Kissinger, World Order, New York: Penguin Press, 2014, p.126)
このように、中東では、国家制度が崩れて権力闘争者の競合に陥ってしまいました。かつて国家によって統治されていた地域は権力の空白状態となり、ビコーの野蛮状態へと退化してしまったのです。中央政権がすでに崩れ去った地域では、権力闘争者はお互いに激しく競合し、地元の住民を犠牲にしています。国家体制がまだ保存されている地域でも、支配者は周りの脅威を理由としてその支配を強めるようになりました。個々の闘争者は米国やロシアなど外部の支持を得る可能性を追求しています。まだ宗教は影響力が強く残っているので、権力追求者の目的達成のための手段として用いることができるため、多くの紛争は、西洋社会に対するイスラム聖戦など宗教闘争の形を取りえます。これらの闘争が地域内に留まるとは限らないので、国際社会にどのような影響があるか心配されるところです。