国際社会を見てみると、現在中国が民主化の過程にあることが分かります。下図のオレンジの部分ですね。

西洋史では民主化は比較的平和に行われたケース、国内で武力闘争を引き起こしたケースなどもありますが、ドイツとイタリアは膨張主義に走り、世界大戦を引き起こすという世界史上の悲劇となりました。国際社会にとって、中国がこのような道を進むと取り返しの付かないことになりかねません。歴史はこの問題に対処するのに、どのような貢献をしてくれるのでしょうか。ここで、ドイツとイタリアと同様膨張主義に走った日本の民主化について見てみることにしましょう。
日本は神道に基盤を置く天皇家と武家の間の権力争いを経験し、西洋とよく似た形で周期をたどり、国際社会に組み込まれた19世紀には徳川氏の支配、すなわち英雄の時代に当たっていました。ここで、日本が強制開国という形で帝国主義の最盛期であった国際社会に組み込まれたことが、日本の民主化に大きな影響を与えます。その過程を見てみましょう。
開国に際して、旧支配者層は解体されます。尊皇攘夷によって徳川幕府は終焉をむかえ、廃藩置県によって藩制も解体されました。ここで、政治的影響力を持ったのは旧藩の下級武士でした。彼らは典型的な権力闘争を繰り広げ、徐々に権力が移行していきます。まず指導的立場に立ったのは、旧薩摩、長州、土佐、肥前の四藩の下級武士たちでしたが、彼らは元老と呼ばれ、明治政府の中心となりました。その後政治権力は徐々に大藩であった薩摩と長州の手に移り、さらに長州出身の伊藤博文と山形有朋の手に、そして最後には山形有朋が政治権力を握ることになりました。
国内外の環境によって、軍事的、経済的社会層が生まれ、この権力闘争に組み込まれていくことになります。まず、軍事的社会層について見てみましょう。伝統的武士階級は明治維新によって解体されてしまいましたが、帝国主義下の国際社会に直面して、元老は一刻も早く西洋に対抗できる軍隊を築くことが必要と強く感じていました。これを推し進めたのが山形有朋です。彼は西洋方式の軍隊を設立しましたが、このために旧武士階級の士族の反感を買い、またそのための財源として農民に高い税を課したとして農民の反感も買うことになりました。この2階級の反乱が多発し、それで国内的にも中央政府の軍隊が必要となりました。士族の反乱は西南戦争などを経て鎮圧されました。山形はこれに懲りて軍人が政治に介入しないよう配慮します。その目的で陸軍参謀本部と海軍軍令部が設置され、陸軍大臣と海軍大臣も現役将官から選ばれなければならないと定められました。しかし日清戦争後、文民統制が難しくなってきました。これは帝国主義世界にうまく適応した日本でしたが、そこで国際的に権益を得るに従ってそれを維持するためにさらに軍備拡張が必要となり、軍部の政治的発言権が高まってきたことによります。それでも元老である山形有朋が健在であった時は、押さえが利いていましたが、山形が引退すると、政界で独立した社会集団となりました。
次に経済的社会層について見てみましょう。日本には江戸時代からある程度の土着の産業が発達し資本蓄積が進んでいました。その中で、富豪商人は明治時代に政商となり、西洋諸国にできるだけ早く追いつかなければならなかった明治政府と親密になり軍事拡張を中心とした重工業振興のための資本を提供し、引き換えにさまざまな商売上の恩恵を受けました。さらに、都会では綿工業、田舎では絹工業が発達していて、これらの産業は中小資本家を生み出しました。ここで、まず元老間の権力争いに破れた旧小藩の板垣退助などは民主化を利用し、政党を作って対抗しました。板垣は自由党を設立し、まず高い税に不満を持っていた農民を取り込みました。この劣勢に立った政治家が政党を利用して巻き返しを図るという試みは繰り返し見られ、最後には伊藤博文が山形に対抗するために政友会を設立します。伊藤が山形に破れ引退した後、この流れは次世代の原敬に受け継がれ、彼は農民だけでなく、中小資本家、大資本家なども取り込み、相対する利害関係を内包することになりました。また、非軍部系の政府官僚も参加することとなり、20世紀には軍部と政党という二大勢力が確立することとなりました。
軍部対非軍部の対立構造となった日本政治は1920年代には非軍部勢力が優位に立ちます。これには国際状況が大きく関係していました。まず安全保障の点から見ると、1920年代は比較的平和で国際的に軍縮の動きもありました。ただ、中国だけは政情不安が続いていました。さらに、経済状況をみると、20年代は国際的には不安定な要素も多かったのですが、日本はその中では比較的安定していました。これは重工業の発達期に当たっていたことで、労使関係がそれほど悪化せず、社会主義革命などの脅威も感じられなかったことによります。なので資本家は軍隊による保護の必要を国内的には感じていませんでした。農村は確かに不況でしたが、地主が実際農業に従事しておらず、さっさと土地を売って都市の産業に投資したので、大きな社会問題とはなりませんでした。ただ、小作農家は苦しみ、米騒動などは頻発しましたが。この比較的安定した経済的状況のおかげで、大資本や中小資本家が団結して軍部に対抗することができました。軍部は軍拡を試みましたが、平和な国際状況下では経済界は軍拡のための増税は経済発展に不利になりますし、また、植民地での軍部の武力による統治が現地の反感を買い、日本製品のボイコットなどの問題を起こしていました。産業の発展につれて、先進国への輸出も進んできていたので、国際的軍縮の動きに反して先進国と敵対することも産業家にとっては不利となってしまいます。そこで、彼らは連帯して軍拡阻止からさらに軍縮へ、軍部の政府での影響力を弱めるため現役将官制の廃止、植民地総督の文官採用などの改革を推し進めようとしましたが、ある程度の成功は収めたものの、完全な勝利にはいたりませんでした。
その間、この軍部に対する総攻撃は軍部を急進化させることになってしまいました。軍縮による人員削減で最も被害を被ったのは若い軍人でした。自分たちの属していた原隊の廃止などは精神的な打撃にもなったとのことです。また、陸軍士官学校では明治に制定された軍人勅諭の暗記などの教育を取り入れ、急進的思想を促進し、それが1930年代の青年将校によるクーデターに繋がっていきます。彼らは自分たちを守るためとは言わず、疲弊した農村を守るとの主張を行いました。
1929年の世界大恐慌後、反軍の流れは一転します。経済環境は悪化し、反軍連携は崩壊します。都会では労働争議が悪化し、また今までの賃上げ要求などと違い、生活のかかった解雇反対など必死の様相を呈してきます。この結果、経営者の中に政府の保護を求める者がでてきました。農村でも小作争議が多発し、これも小規模地主と小作の間の死活をかけた抗争になってきました。このような深刻な経済状態に対して、軍部は自己を解決者として呈示しました。農村に対しては政府は効果のある政策を採ることはできませんでした。これに対して軍部は満州移民という解決法を呈示します。これはリップサービスに過ぎない程度のものでしたが、必死の農村には効き目があり、農村が軍を支持するようになります。中小資本家と労働者から成る中間層に対しては軍部は何の解決法を示すこともできませんでしたが、彼らは政党政治に完全に失望していたため、軍部は反政党の立場を示すだけで彼らの支持を得ることができました。財閥は政党に出資するなどして繋がっていましたが、世間の反発が強まり、また西洋先進国への輸出市場が冷え込んでくると、国内の市場開拓の必要を感じましたが、中小資本家と競合しないために、軍需産業への進出が得策となりました。これによって財閥も軍部支持に乗り換えます。
このような状況を背景に軍部は反撃にでます。これには幕僚と呼ばれる中級将校と若い青年将校の2つの流れがありました。まず石原莞爾に代表される幕僚は中央の許可を得ず満州事変を起こし、それに連動して国内でのクーデターも企てました。軍部中央も事変が成功するとこれを承認しました。これにより政府が大きく妥協すると、国内クーデターは中止されました。しかし、青年将校はこれを裏切り行為と見て反発し、独自にクーデターを起こします。クーデターは終結し、首謀者は処刑されましたが、これで政府は震え上がり、軍部の政治的優越が確立されました。しかし、一旦急進化した中国駐屯の関東軍は、中央政府の統括が聞かなくなり、その頃までには中央の指導層の一員となっていた石原の必死の努力にもかかわらず、日中戦争を起こすことになってしまい、歯止めの効かない膨張国家と成ってしまったのでした。
この日本の例を見てみると、膨張主義国家の形成に関して次のような一般化法則が作成されるでしょう。
(1) 必要条件: 国家建設と産業化が同時進行または非常に接近して行われた場合、または産業化が極めて急速に行われた場合、国内社会に政治的支配者とその対抗勢力、資本家と労働者という複数の社会集団が誕生する、これが無謀な膨張主義国家形成の必要条件となる。
(2) 利害の形成: 潜在的膨張主義国家が経済的後進国であった場合、先進国に早く追いつくため、資本、労働の集中が起こりやすく、国内に大資本家と大規模な組織労働者を形成しやすい。反対に、先進国にそれほど後れをとっていなければ、資本は分散し中小資本家層が形成されやすい。潜在的膨張主義国家が軍事的後進国であった場合、国内社会に強力な軍部を形成しやすい。
(3) 連帯の形成: 連帯形成時に経済成長が続けば、経済的社会層は団結し反軍部提携を形成しやすい。反対に、経済が停滞したり後退していると、団結は難しく、軍部の影響力が高くなる。同時期に、軍事環境が不安定である場合も、軍部の立場が有利になる。反対に、安定した軍事環境下では、軍部の政治的影響力は弱まる。
(4) しかしながら、同時期に軍部が国内社会において非常な脅威を感じた場合、軍部は国際社会における国家としての安全から国内社会における軍事組織の安泰にその関心を切り替える。そうなると、軍部は経済的社会層を依存させるため膨張主義的戦略を採用しやすくなる。
このように、民主化は必ずしも武力衝突を伴うものではありませんが、その危険も十分あるようです。実際日本と同じ時期に国家建設と産業化と行ったドイツとイタリアも膨張国家となって第二次世界大戦では枢軸国を形成することになりました。
この教訓を今民主化が始まっている中国に当てはめることは可能でしょうか?ちょっと見ると日本と中国はまったく違っているようにも見えます。日本は封建制度から現代社会に入りましたが、中国は社会主義国です。また、日本は比較的ヨーロッパに似た歴史をたどり、中世では神道を基盤とした天皇家と武家の間の二極対立という形を取ってきましたが、中国は宗教の中心となる極は存在せず、儒教を学んだ官僚と皇帝の対立という形が取られてきました。このように、違いはいくらでも発見できるでしょう。しかし、ここで注意しなければならないのは、それらの違いが一般法則を無効にしてしまうものであるかどうかが吟味されなければならないということです。例えば、明石大橋とサンフランシスコの金門橋を見てみると、違うところはたくさん見られます。明石大橋は日本にあるし、白いし、4000m近くあるし、歩いて渡ることもできません。一方金門橋はアメリカにあって、赤いし、3000m弱だし、歩いて渡ることができます。でも、これらの違いがあるから明石大橋が金門橋から学ぶことは何も無いとは言えないでしょう。どちらもつり橋であるわけですから。この場合、例えば、金門橋が落ちても明石大橋は落ちないだろう、なぜなら明石大橋には強度が二倍のケーブルが使われているからというような議論なら成立します(これは事実ではありません。)この点は歴史の教訓を学ぶ際にも重要で、異なる歴史的史実の中から、どれが一般法則に影響し、どれが無関係な違いであるかを見極めながら必要な教訓を学ぶようにしなければなりません。
このように見ると、中国は目覚しい速さで産業化を進めています。出発点も社会主義下で大規模な資本も存在しているでしょう。国際情勢もロシアや北朝鮮などアジアでは不安な材料が存在します。その反面、日本やドイツは鉄鋼などの重化学工業を通じて産業化を図りましたが、今はコンピューターなど産業の種類が違って、それほどの大規模資本を必要としないのかもしれません。このような点をいろいろ考えて、まず膨張国家となる心配があるのかどうかを見極め、あるとするとどのようにその方向を変えることができるのかを考えることが必要になるでしょう。日本の民主化は1870年代から1930年代まで70年かかっています。今対中政策をどうするかということも大切ですが、このような長期的視野に立って考えることも大切でしょう。